会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠のもとへ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。
これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝のもとへ問罪使を派遣した。ところが景勝の重臣・直江兼続が「直江状」と呼ばれる挑戦状を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして上杉氏討伐を宣言した。このとき、前田玄以・長束正家・増田長盛ら三奉行と堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正らが征伐の中止を訴えたが聞き入れず、征伐を強行した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷・豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が、謀反人の景勝を討つ」という義戦と認められた形となった。
6月16日、家康は大坂城・京橋口より軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。
この出兵には、家康に反感を持つ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されていた大阪城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、毛利輝元を総大将として擁立し、家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万人の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。
さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感を持つ武断派の大名らは家康に味方すると告げ、ここに家康の東軍が結成された(小山評定) 。
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東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち、一隊は徳川秀忠を総大将として宇都宮から中山道を、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かうこととなる。一方で家康は江戸城に一ヶ月ほど留まり、160通近い書状を諸大名に回送している。これは、三成が大坂城と秀頼を事実上擁立していることが伝わったため(小山評定の段階では三成の単独挙兵として伝わっていた)、彼らが三成のもとへ駆けつけることを恐れたためである。
正則ら東軍は清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、西軍の織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき、家康は信長の嫡孫であるとして、秀信の命を助けている。
9月、家康は江戸城から出陣し美濃国に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲をかけてきた。それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死している(杭瀬川の戦い。なおこれに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという噂もある。詳しくは神戸町の項を参考のこと)。
9月15日午前8時、美濃国・関ヶ原において遂に東西両軍による決戦が繰り広げられた。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であったが、正午頃、予てより懐柔策をとっていた小早川秀秋の軍が西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、西軍の大谷吉継隊に襲いかかったのを機に形成が逆転する。大谷軍も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が家康の本陣目前にまで猛攻して来るという非常に危険な局面もあったものの、家康率いる東軍の勝利に終わった(関ヶ原の戦い)。
家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛し、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、それらから奪った所領により自分の領地を250万石から400万石に増やした。秀頼、淀殿に対しては「女、子供の預かり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、家康の論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は西軍の大名領もろとも失われた。その結果として豊臣氏を摂津国・河内国・和泉国の三カ国65万石の一大名の身分に落とし、家康が実質上の天下人として君臨したのである。